No.1 VERITASに学生講師が多い理由
No.2 数学を学ぶ意味とは
No.3 受験生の頃の心の叫び
No.4 ○○大学への数学
No.5 模試認定って何?
No.6 「ゆかし」の心
次回予告 >> 東大入試の高校教育に対する責任

 

 昔、日本には「ゆかし」という言葉があった。辞書によれば「好奇心がもたれる」というのと大体かわらない意味であるが(知りたい、見たい、聞きたい、など)、もっと「心惹かれる、慕わしい」といったニュアンスを含んでいる。「好奇心」というよりもずっと優しく身近に響く、こんなに美しくて良い言葉がどうしてなくなってしまったのだろうと、残念でならない。適切な名前を与えられない概念というのはなかなか考える対象になりにくい。また、考える地盤がないところには適切な名前が存在しなくなってしまう。(昔日本で自由恋愛がご法度だった時代にキリスト教の神の「愛」を説明するのに「御大切」という言葉を与えたように、だ。)従って、詳しくはわからないが、「ゆかし」が消えたことは「ゆかし」く思うということが健全に考えられないような状況ができてしまったということの現われなのかもしれない。だとしたら、とても悲しいことである。なぜなら、こんなに健康なパワーと豊かさを与えてくれる感情は他にはほとんど思いつくことができないからである。

 科学が真理を純粋に知りたいと思う気持ちからの営みであることを思えば「ゆかし」と思う気持ちは世の中を動かすほどの力をもっていることになる。それは何も科学者が異常な精神力を持った人々であるということではない。誰しもそれだけの潜在的な「ゆかし」のパワーを秘めていると、私は思う。「ゆかし」の気持ちは少し刺激されればむくむくと起き上がり、ふくらんでいく。要は起こしてやりさえすればいいのである。

 いったん起こされた「ゆかし」の情熱は尽きることがない。いや、尽きないどころか雪だるま式にふくらんでゆく。例えば、ある作家のある作品を読んで感動した人は、その作家の作品を全部読みたいと思うだろう。そして、さらに感動すれば、その作家が影響を受けた作品だとか、文章中に登場した作品だとか、果てはあとがきを書いている人の作品まで読みたくなるかもしれない。そうして「ゆかし」はどんどんリンクを張って、膨らんでゆく。本を読むことが好きな人はそうしていつも読みたい本を持っている。本を全く読まない人というのはそのリンクができていないのである。逆に、そういう人でも感動できる一冊に出会ってしまったことで、あっという間に本好きになってしまうこともある。そしてこれはまた、快感でもある。

 人は誰でも「ゆかしい」気持ちを欲している。なぜならそれが快感だからだ。例えば、プレゼントを開ける時の、どきどきわくわく感、遠足に行く前日の高揚した気持ち、そう言った気持ちを嫌いな人がいるわけはない。むしろ、いつも高揚していたい、どきどきしていたい、というのが願いのようである。それが豊かな人生だとまで目されている。それらは言い換えればすべて、「ゆかし」と思うことと、その気持ちが満たされることの快感なのである。その観点で言えば、恋にときめく人も、真理を探求して止まない科学者も、本の虫も、全国に生息する「オタク」といわれる人たちも根は同じである。みんな「ゆかし」なのである。「ゆかし」い気持ちはすざまじいパワーをもってして人生を豊かにしてくれる。

 恋にときめく人も、と書いたが、今の人達にとって恋と「ゆかし」い気持ちとは無関係ではないと私は思っている。最近、恋愛がもてはやされがちだ。そういうとちょっと誤解を招くかもしれないが(古今東西愛する感情はあっただろう、と)、そうではなく、恋愛に関して考える、恋愛とはなにか、恋愛にはどういう形があるか、そういったことをテーマにした本や何かが特にもてはやされる、そのことだ。映画スクリーンではニコール・キドマンが「人生って最高ね。幸せとは愛し、愛されること」とかなんとか言っていて、実際「愛し、愛されること」に自分のエネルギーの大半を割くのもいとわない人も多い。私が言いたいのはそれが良いとか悪いとかいうことではなくて、なぜそういう傾向ができたかということだ。愛に情熱を注ぐのは決して人類の夜明けから普遍の行為ではない。「愛よりも仕事をとる」ような人間だって一昔前までは少なくとも今よりはずっとたくさんいたのである。私は、恋愛というものが今の人たちにとって「ゆかし」と思う強い気持ちとそれが満たされる充足感を得る場になっているのではないかと思う。恋人のことは普通、だれだってよく知りたいと思う。「高所恐怖症だ」とか「好きな食べ物は豆腐」だとかささいなことまで記憶してしまう。そしてその知りたい気持ちというのが簡単に満たされないところに恋愛というものの魅力があるのだろう。「たぶん、男と女は、期待するほど同じではなく、あきらめるほど違いはない、と僕はおもっています。それより、目の前の人間を理解する困難さは、相手が同姓であろうと異性であろうと、同じなのです。」と、ある日本人劇作家は言っている。それなのに恋愛に悩んで「男[女]ってわかんない…」とつぶやくのは、恋愛以外でそれほど深く人を理解しようとすることがないからだろう、と。要するに恋愛以外に他人にそこまで直球で「知りたい」気持ちをぶつけることなんかないわけで、だからこそ、恋愛に価値がおかれているのである。

 「今の人たちは」と書いたが、私たちは昔の人に比べて「ゆかし」く思うことに貪欲ではなく、結果として「ゆかし」と思う気持ちの幅をせばめているのではないかというのが私の思うところである。「ゆかし」く思うことを欲していても意識的に各方面に求めようとはしないから、その先が恋愛に集中するのだ、と。それは「ゆかし」と言う言葉が消えたのと同じ位寂しいことである。求めようと思えば限りなく「ゆかし」く思う対象は広げることができるのに。例えば、勉強だってそうだ。「ゆかし」の気持ちが入ったところの学問というのは俄然豊かになる。そして、良い本、良い先生というのは、必ずそこを刺激してくれるものなのである。

 大学の先生というのは自分の専門を好き勝手にしゃべって帰ってゆくので、全然よくわからない、といわれたりする。けれども、わかりやすく教えることばかりに長けている先生と、普段は自分の研究に忙しく、学生には一生懸命語ってもその片鱗しか語れないと思っている先生とでは、断然後者の方が良い影響を与えることは間違いない。もちろん教えるのがうまいに越したことはないが、それよりも、学生に自分が感じているその学問への情熱が自然に伝わってしまう、それが良い先生である。それはその先生にとっての「ゆかし」の発散の場が、その学問であるということである。学生は先生が、授業で語ることよりも遥か遠くまで見ていることに気が付く。授業ではその片鱗しか与えられなくても、自分の手でその全体を見てみたい、先生が見ているものを見たいと思うようになる。いわば「ゆかし」の熱が伝播するのである。

 かって「ゆかし」の熱はそこらじゅうで伝播していたし、人はそれに今よりずっと敏感だった。例えば、「若い人が本を読まなくなった」と言われるのは、娯楽が増えたとかいうよりも、単に読書欲をかきたててくれる友達がいなくなったからである。また、逆に、その欲を掻き立てて欲しいという気持ちも薄くなったからだろう。例えば、本のまえがきやあとがきを読むのが好き、という人がいる。それは極めて自然な発想である。なぜなら、まえがきやあとがきほど、読書欲をそそるものはないからだ。「エーミールと探偵たち」で有名なドイツ人作家ケストナーは自分の本のまえがきを書くのが大好きだと言っている。まえがきとは家の前庭のようなもので、まえがきのない話は、前庭のない家のように味気ない、と言うのだ。実際彼のかくまえがきはとても楽しいものである。例えばこのように。「この本で、わたしは子供たちに、じぶんの子どものころのことを、いくらかお話しようと思う。ほんのいくらかであって、全部ではない。全部などといったら、わたしのきらいな、レンガのように重い厚い本の一つになるだろう。わたしの仕事机はしょせんレンガ焼き場ではない。それに、子どもの体験することがすべて、子どもたちが読むのに適するわけではない!そういうと、すこし奇妙にきこえるけれどそのとおりなのだ。みなさんはわたしのいうことを信じてよい」この優しい言い方に、思慮深い作家の顔が浮かんでくるようである。およそ、強靭な思考力をもった作家にとって、数冊の本に、自分の考えを全て投影することなどどだいムリな話である。普通の読者は全ての作品を読んで、それらが形作る一つの塊としての思索をなんとなく理解することしかできないのだが、その塊の全体をぼんやりと示してくれ、その一冊が全体のどこに位置するかという指標のようなものを与えてくれるのがまえがきやあとがきだったりする(そうでないものもあるが)。まえがきやあとがきを読むのが好きな人は自分で自分の好奇心を刺激してやることを知っているのである。

 これは前述の教師の話と一致する。大切なのはその教師や作家の見ている全体が、どれだけ大きなものであるか、ということであり、それに比例して受け手はより大きな「ゆかし」の気持ちをかきたてられる。それは逆に、自分の好奇心を大切にする人はそういう先生なり作家なりを選ぶと言うことである。

 人が「ゆかし」という気持ちを発散する場所を求めているのは明らかなのに、どうして意識的に「ゆかし」という気持ちを掻き立てようとしないのだろうか。だから、「氷山の一角」系授業がわかりにくいといって嫌われ、わかりやすいけれどそれ以上でもそれ以下でもない「等身大」系授業が好まれたりする。それはとても悲しいし、もったいないことだ。いやしくもなにかをやるならば、「全体を見たい」と思ってほしい、おもえるようなしかたをしてほしい。それは意識的に好奇心の輪を広げていくというほんとうに楽しい行為である。■(ロイグ)