第三代 学校長

2009年1月〜現職

文学博士(国文学) 






子曰く、学びて思はざれば即ち罔(くら)し、思ひて学ばざれば即ち殆(あやふ)し
[子曰学而不思則罔思而不学則殆]


 『論語』為政篇の一節です。これは、物事を学んでも、自分でそれについて深く考えてみなければ、本当の理解には到達しない、考えるだけで学ばなければ、独断に陥って危険である、ということを言っています。

 「罔」とは、「学んだことの道理が、よくわからない。うすぼんやりして不確かなこと」を言います。儒家の祖、孔子は紀元前500年頃に、すでに学問について、このように述べていますが、現在の学校教育の中では、この「罔」状態が、学年が上がれば上がるほど増してしまっていってるのではないでしょうか。


 「罔」及び「殆」状態を、できる限り排除し、学ぶ為には何が必要か、自分で考えるとはどのようにすれば達成されうるのか、このことを突き詰め続けるために存在しているのが、本学であるヴェリタスです。

 この「罔」「殆」でない学びを実現するために、ヴェリタスとしての重要な指針があります。それは、<歴史を追うように学ぶこと>です。新しい概念を学ぶとき、先人がどのようなプロセスを経て、その概念に至ったのかを追体験し、新しい知識創成の動機を充分に共有した上で、概念把握を一ステップ一ステップ飛躍なく丁寧に行うこと、これこそ、自らで考えることが内発的に行われるプロセスであると考えています。

 自分をも他人へも理解をごまかさない学問的<誠実さ>、わき上がる疑問を感じそれを封じ込めない<素直さ>、自信過剰でも欠乏でもなく自らを偽らない<等身大さ>といった基礎的作法は、その作法を体現する講師とともに、<歴史を追うように学ぶこと>で自然に身についていくものだと実感しています。


 孔子の言う学問とは、法治主義に抗して、徳治主義を体現する、実践活動を含むものですから、現代の学問とは少し異なるものです。しかし、ヴェリタスの〈場〉が、孔子が、荒れた春秋時代に、弟子達を連れて「仁」(=忠+恕)を説いて回った、あの行動に重なるよう努めたいと思っています。自らに厳しく、あくまでも誠実に、他者に対してはあくまで寛大に、処する集団。このような〈場〉と出会い、そして時期がきて卒業していく受講生達が、次の場である大学で同じ態度で学びそして研究を続けていく。むしろ、入学後にこそ、ヴェリタスで培った学問の作法方法が生きるのです。そして、卒業生が大学に通いながら、相談員として後輩を激励し、或る者は講師として後輩を教えに戻ってきます。個としてだけでなく、集団としてヴェリタスは存続しているのです。この集団が広く社会へとつながっていくことを願っています。







 初代
(1998年1月〜2005年6月)


 浅海芳夫(故人)


 理学博士(地質学)
 
 第二代
(2005年7月〜2008年12月)


 山田牧子


 工学修士(建築学)